週イチ日記
2008.02.11
無題
突然に昔の恥ずかしい記憶が彩り鮮やかに思い出され、妙に落ち着かなくなることがあります。なにも10年以上前のことでいまさら赤面しなくてもいいじゃないかと思うのですが(詳しくは恥ずかしいので書きませんが…)、記憶というのは自分のものなのにまったく思い通りにならないものです。
幼いころ、僕は「グループ」(集団)と「グレープ」(ぶどう)を何故かきちんと使い分けることができなくて、適当に使っているうちに一緒くたになって憶えてしまいました。おかげで今でも「グループ」(集団)と聞くと、5、6房のぶどうが手を取り合い整列しながら花いちもんめをしている牧歌的な、というか相当シュールな情景が反射的に浮かんでしまいます。スーパーでぶどうを見かければ、無意識に「グレープのグループ…」とつぶやいてしまい愕然とすることもたびたびです。
ソース染みのような頑固な記憶がある一方で、存在しないはずの記憶を思い出すこともあるようです。いわゆる既視感です。初めて降りた駅なのに、まるで以前にも来たことがあるような気がする、そう感じることが稀にあります。もちろん気のせいなのですが、そんな時に駅前にあったスナックの名前が「デジャヴ」であることに気付いてしまいました。その邂逅は僕を夢と現の狭間に迷わせ、やがてナイーブな僕のアイデンティティーは砂漠につけられた足跡みたいにさらさらと失われていくのでした…というのは嘘ですが、こんな箸にも棒にもならない記憶にかぎって割としっかり憶えているから不思議です。
ところで河島英五氏の名曲「酒と泪と男と女」の歌詞の中には、「忘れてぇしまいたぃ~ことや~♪」というくだりがあります。先日この曲を歌う機会があったのですが、僕にとって忘れてしまいたい記憶ってなんだろう、とフト思いました。詳細を避けた恥ずかしい数々の記憶は、確かに忘れたいといえば忘れたいけれど(呑みつぶれて眠るほどではない)、本当はそういう記憶こそ大事なんじゃないかなとも思います。恥ずかしかったことはもちろん、悔しかったこと、あるいは涙したくなるような記憶の一つ一つが自分の新しい行動規範の素地になっているような気がするからです。同じような状況に出会って、それを以前より上手く乗り越えられたとき、ちょっとだけ自分が進歩できた気がします。ときどき記憶がフラッシュバックするのは、こんな気持ちを思い出させようという僕の側頭葉だか海馬だかの老婆心かもしれないな、と思えないことはないです